この写真はつい先日(11月8日)に広島のあるホテルに泊まったとき、友人と呑んでいい気分で帰ってくると、ロビーで飾り付けが行われていたものです。言うまでもなく「クリスマス・ツリー」。途端に酔いが覚めて、思わずシャッターを押してしまいました。そして世間ではこのホテルのみならず、あちこちで同様の電飾が二ヶ月も先のクリスマスへむけて不気味なカウントダウンを開始しています。一体こんな習慣が当たり前のようになってしまったのは何時の頃からなのでしょう。そもそも何故我々に本国民が国家をあげてイエス・キリストの誕生を祝うのか? いや、祝ってなどはしない・・・、それは重々承知なのだけれど、だからこそもう少し遠慮深気にやってはどうかと、何時も思うのです。12月25日に色褪せたクリスマス・ツリーをみるのは、ひどく辛いものです。
高校はカトリックの学校でしたが、私自身はクリスチャンでも、仏教徒でもありません。2000年前にベツレヘムに産まれた一人の男の人生を思いつつ、その誕生を祝福したいという気持ちはしかしながら、少なからず持っています。とは言え、こうもタイミングが早過ぎると、事の肝要を見失いそうでどうも嫌なのです。
私は故郷の冬が好きです。それはそれは厳しい季節ですが、真っ白な雪が全てを包み込み、私達の生活の全てがその中に封じ込められることが、まるでノアの箱船に乗ったような、厳粛な運命であるかのような気がします。それは一年の中で長い時間であり、また緊張した時間でもあります。私が好きなのは、この緊張感なのかもしれないと、思う時があります。
私達が新しい音楽作品と巡り合うとき、それはとても重要な瞬間だと思うのです。人と会うときと同様、第一印象は何時までも心に残ります。カタログで注文した楽譜や、何気なく楽譜屋さんで買ってきたピース、作曲家から送られてきた新作、・・・どれも初めて楽譜を手にして、それを読んでみるとき、そしてギターを手にして音にしてみるとき、それは緊張の一瞬であり、何物にも替えがたい貴重な時なのです。
ギターを勉強する人達(ギタリスト達と言ってもいいのですが)は「初見」が大変苦手です。苦手というレベルよりは「下手」と言ったほうが良いでしょう。これまで何度か「初見ができるようになるための講座」をやったことがリます。私なりに方法を色々考えてノートをまとめ、講義をしたのですが、それでもなかなか上達しませんでした。最近になってそも理由が少しわかってきました。若者の多くは、そもそも自らの体験として「初見で曲を弾く」ということが余りにも少ないのです。つまり興味のある楽譜を買ってきて弾いてみるとか、これはどんな曲だろうとピアノや他の楽器の曲をギター弾いてみるとか、そういうことがとても少ないのだという現実に気付きました。それでは「初見能力」など培われるはずがありません。
多くの人はCDで聞いた「気に入った曲」の楽譜しか買いません。ですから楽譜を開いても、そこにあるのは「未知の音楽」ではなく、すでに顔見知りの人が立っているわけです。純白の緊張とは違うと私は思うのです。さらに彼らの多くは「どんな音なのだろう」という興味よりも「どうやって弾くのだろう」という興味が先行していますから、目は真先に「運指」を見ています。どの指で押さえ、どの指ではじくのかということを最初に情報として頭の中に入れていきます。これを「可哀想な初体験」と断じることは遠慮するとしても、こう言った人達がこう言った理由から初見することを覚えなくなる、そして運指のついていない曲は弾けなくなる、あるいは自分で運指を考えることが出来なくなる、というのは明白のことのように思えるのです。
続く