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《はじまりの音楽》
by Shingo Fujii
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7.朧月夜

高野辰之/作詞
岡野貞一/作曲

菜の花畠に、入り日薄れ 見わたす山の端、霞ふかし
春風そよふく、空を見れば 夕月かかりて、におい淡し

里わの火影も、森の色も 田中の小路を、たどる人も
蛙のなくねも、かねの音も さながら霞める、朧月夜

 私の小学校には音楽教室が二つあって、古いほうは木張りの渡り廊下のむこうに、古びたオルガンがあり、新しいほうは新しい校舎の二階にピカピカのアップライトピアノがありました。あっちに行ったりこっちに行ったりしながら、先生の弾くオルガンやピアノに合わせて頌歌を歌っていましたが、この歌はその古いほうの音楽教室で歌ったような気がします。それまで歌っていた歌に比べると、格段に「大人」になったような気がしました。「入り日薄れ」や「霞深し」なんて言う言葉使いがそういう気分を醸し出していたし、なによりもこのアンニュイな情景描写が「大人だな~」と言う気分にさせました。
 しかし今になって思うと、そういう気分を作りだしていたのは歌詞のせいだけではなく、旋律の動きがそれまでのシンプルな上がり下がりだけでなく、下降や上行、さらには三度、四度、五度など様々な音程があって、そこに(小学4年生や5年生)までには許されなかった「大人の入り口」を感じていたのかもしれません。

 ギターの旋律でもこれらの音程の持つ表情、すなわち最初の長三度の下降は「ため息のように」、また「山の端」の完全四度、長二度の上行は「気分の高揚を」と言ったようなことを感じて欲しいのです。ここではギター特有のグリッサンドやポルタメント、あるいはビブラートなどといった奏法が絶大な効果を生むだろうと思います。1st guitar は楽譜に私が書き込んだ運指のことはことごとく忘れ、あなたの心に浮かんだ旋律の姿をひたすら追い求めて演奏して欲しいのです。それは右のページは勿論のこと、1オクターブ下がった右のページでも同様です。実は私はこの曲をアレンジしながら、いつも頭の中の何処かでアメリカのどこかの場末の酒場で歌っている女性のジャズシンガーの姿とそれを囲む紫煙と安い酒のむかつく匂い、そして彼女の擦り切れた歌声、そんな風景が見えていました。さあらば、右のページでは歌い手は男性の黒人歌手。自由に、自由に、あなたの歌声のごとく歌って下さい。そのためにはギターの音色と、音のつながり具合が大事です。

 2nd guitar はその歌い手のための「舞台」を作りださなければなりません。・・・いつも穏やかなウッドベース、・・・そして機転の利くピアニスト、・・・信頼できるドラマー、・・・そう言った役回りが 2nd guitar です。右のページでは「とんでもない遊び」をしていますが、お気づきでしょうか? Quodolibetto というのですが、互いに全く無関係なメロディーを弾きあいます。有名なバッハのゴールドベルク変奏曲でもこう言った手法がみられます。ここでは1st guitar は勿論「朧月夜」を、そして2nd guitar は岡野貞一氏の名作「故郷(ふるさと)」です。

 文部省唱歌というのはそもそも、我が国の政府が国民のために作り供給した歌なのですが、したがって、かつては「塩」や「たばこ」が専売公社からしか供給されなかったように、音楽も同じ運命をたどり、誰が作曲したということは一切公表されず「文部省唱歌」というラベルのみで、ついこのあいだまで、私達の元へ「配給」されていたのです。そのことは後に、膨大な数の文部省唱歌、私達の耳と口に馴染んだ数々の音楽作品の作者が一体誰であるのかということを不明瞭で曖昧にする原因となりました。ただ、その曖昧さが果たして本当に曖昧なのか・・・、曖昧にしておいたほうが都合が良い・・・、という人々の作為なのかは疑わしい点があります。例えば本人の意志が明確に残され、遺族がその遺志を引き継いでいても、周辺の人間は「はて、それはどうでしょうかね、証拠はありませんからね・・・」などと空とぼけることを可能にしてしまっているわけです。そのようなことが生じるのは、文部省の唱歌を制定する委員会が解散し、そして日本著作権協会なるものが設立され、そこにそれまでの唱歌制定委員(作曲家)が深く関わっていたという事実が、重大な影響を及ぼしていることは間違いありません。そのことでの裁判問題もいくつか起きています。

2 わたしがここに「朧月夜」と「故郷」と言う二つの名曲を並列したのには、この二つの音楽に強い共通性を感じているからであり、それは言うまでもなく、これら二つは岡野貞一氏の手による作品であろうと信じているからであります。