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《夜想曲 ~鳥の歌による》
Nocturno sobre “El Cant dels Ocells”
by Shingo Fujii

Nocturno sobre "El Cant dels Ocells" para 3 guitarras
~「夜想曲~鳥の歌による」ギター三重奏のための

・・・作品を書き終えて

富川君、大島君、栗田君へ

 「夜想曲~鳥の歌による」の初演が終わって、丁度2週間が経ちました。私の作品の初演も、本当に素晴らしい演奏でしたし、とっても楽しい演奏会でした。有り難うございます。
 今、あの演奏会のことを思い出しても、それがとても遠い以前のことのような気がしてなりません。皆さんはどうなのでしょうか? これは、いつも作品を書いて・・・、出来上がり・・・、演奏されて・・・、感じることです。特に今回は作品が出来上がってから、初演までの期間が短かったので、その印象は一層強く感じられます。たった「13分」の作品、わずか「13分」の時の流れではありますが、私がこの作品の中に織り込もうとした時間の経過は、はるかにそれよりも長く、これを何度も何度も頭の中で繰り返して、約三ヶ月間を過ごしましたから、2週間という時間の中にその何百倍もの時間が存在するような錯覚に陥ってしまいます。
 しかし別の考え方をするなら、私がこの作品の構想を持ち始めてから(それは昨年末に富川君にその話を持ちかけられて、それからしばらくしてのことなのですが)、作品が出来上がるまでの時間のことを考えると、2週間というのは遙かに短い時間なのです。そのギャップは、いつも不思議で、まるで現実非現実の世界を何度も往復しているような気分になります。

 今回は富川君という、今の僕にとっては色々な意味で重要な友人を通じて、栗田君、大島君という素晴らしい若者であり演奏家と知り合い、作品を書き、メールでの関わり、そして横浜での「未完成でのリハーサル」、そして「完成してからのリハーサル」、そして本番、と色々な出会いをすることが出来たので、作曲するプロセスはこれまで経験することがなかったような、身近さ、生々しさを味わうことが出来ました。
 私はどんな作品を書くときでも、ミューズの女神と会話しようと思うよりは、その作品を演奏するであろう音楽家達と(・・・それはすなわち未来に向かってと言うことなのですが)語り合おうとしているように思います。私が投げかけた「問い」や「提起」に、彼は、あるいは彼女はどのように応えてくれるのだろう、という期待を膨らませながら音を書き連ねていきます。良い演奏に出会ったときは、時間をさかのぼって(つまり、作品を書いていたときの自分と、その演奏家が)楽しげに語り合っている、と言う情景を目の当たりにして、とても幸せになります。しかし、そうでないときには、奏者が私の「問いかけ」にも気づいてもいないし、それを探そうともしていない、勿論何の返答も返ってこない、という寂しさ、つまらなさ、落胆にかられます。その経験の全ての原因を演奏者にあるとは申し上げません。勿論、私の書いた作品自体にも不足な何かがあるから、そうなるのかもしれないとは自戒しています。
vsa 今回私が、ある時から追いつめられた羊の様に、そう言うことから回避したいと思ったのは、とりもなおさず4月に横浜で三人と会うことが出来たからでしょう。「作曲者」と「演奏者」という距離を出来るだけ埋めて、私の作品が誕生していく時間の経過を出来るだけ、あなた達にも追わせて、そして舞台に上がるまでの時間を共有していきたいと感じていました。

 私は自分がギタリストであるとか、作曲家であるとか、あまり区別して意識することはありません。私が最も大事にしていることは、作品が生まれる瞬間、あるいは音楽が人々の前に現れる瞬間、それを大事にし、愛する人間でいたいと言うことです。その時々に自弁に負わされた役目が何であるか、演奏者であるか、作曲者であるか、指揮者であるか、指導者であるか、それは様々ですが、自分になし得ること、そしてしなければいけないことを見失わないこと、といつも強く感じています。おそらく今回の作品「夜想曲~鳥の歌による」を書き終えて、最も強く感じていることは、それを確かに行ったのだという、ある種の充足感です。本当に有り難う!

藤井眞吾(5/27)


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