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David Russell デイビッド・ラッセルと私
2004年10月7日

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 「公開レッスン」、あるいは「マスタークラス」という勉強の機会が最近は我が国でも増えています。直接受講する側には大勢の人間の前で演奏するという機会と、そしてレッスンを受けるという二つのチャンスが与えられます。聴講する側にはあくまでも先生の教えと、それに対する受講生の反応を客観的に、そして冷静に理解していくという場面でもあります。では、教える側にとっては「公開レッスン」、あるいは「マスタークラス」とは一体なんでしょうか? その答えを見事に示してくれたのは、ほかならぬ David Russell でした。彼がこういった場面で、おそらくいつも意識し、考えていることは受講生が必死に演奏しようと、そして最善を尽くしているであろうということ、さらに聴衆はその演奏を寸分漏らさず聞いて、尚且講師の(=デイビッドの)言う言葉に細心の注意を払いながら耳を傾けているという事実、あるいはそういう状況なのです。彼にとっては「受講生」は一人ではないのです。聴講生が10人いれば、11人が、100人いれば、101人が彼の教えをうけている「受講生」なのです。私のこういう言い方が、やや奇異に聞こえるかもしれません。では私の経験から、少しほかの場合をお話ししましょう。
 幸か不幸か、私はこれまでに海外から演奏家がやって来たときにその通訳を依頼されることが何度かありました。個人的に良く知っている演奏家というのは殆どありませんでしたから、その場で彼等の言っていることを理解し、生徒に伝えることは大変な作業でした。また、時には通訳という作業が苦痛であることもあります。それは講師のレッスンの内容が、どうにも納得のいくものでなかったり、「おいおい、それは違うんじゃないかい」と思える時、「真面目にレッスンしろよ!」と言いたくなるような時・・・、また受講生の側にも「受講するならもっと練習してこいよ!」とか「ほら、先生が質問してるんだから、ハッキリ返事して!」とか「アドバイスは僕がしているんじゃなくて、君の目の前にいる先生が言ってるんだから、先生の方を向いて欲しいな・・・」と言いたくなることがあるからです。
 教える側に関して言えば、公開レッスンという経験が明らかに少ないために上手く教えることができないという人もいましたし、公開レッスンと言う場を自分をデモンスとレーとする場とはき違えて、受講生そっちのけで聴講生ばかりに「受ける話し」をする人がいたり、中には真面目すぎて些細な部分にこだわりすぎて話が分かりにくかったり 、またレッスンの内容はとても良いのだけれど聴講生のことをすっかり忘れて単なる個人レッスンになってしまう人もいます。ただし、受講生のレベルが極めて高くなると、その受講生のための極めて限定的な個人レッスンが聴講生にとって極めて有益で、希少の価値をもったレッスンとなることも勿論ありうるわけです。本来「マスタークラス」というのはそういうものであり、そのために受講生の質とレベルを主催者は厳選するのです。
 ついでに受講生の側にも言及するなら、受講曲を十二分に練習してくることは当然のことながら、きちんとした楽譜を用意してくるとか・・・、質問されたらきちんと答えるとか・・・、最低限のマナーであると思うのです。それから、とても見落としがちなことなのですが、受講曲はその先生のレパートリーから選ぶべきだと言いうことです。それは簡単なことです。講師を務める演奏家が これまで行った演奏会をいくつか調べ、曲をあたってみる、またはこれまでリリースしたCDの曲を見て見る、など、これだけでも相当の曲数があるはずです。仮にその演奏家が果たして演奏会で弾いているかどうかわからない、CDにも収録していない曲だけど、ごく一般的に言ってクラシックギターのオーソドックスなレパートリー、例えばソルの有名な作品、ジュリアーニの有名な作品、テデスコやポンセ、トローバやロドリーゴ、といった近代の作曲家の作品であればおおかた問題がないはずです。もうひとつは、その演奏家が編曲の楽譜を出版している場合、あえてほかの人の編曲や自分の編曲などをもって行かない、ということです。当たり前のことですが、世の中にはわざわざそんなことをやってしまう非常識な人がいるのです。

 前置きが長くなりましたが、2000年の博多での David Russell によるマスタークラスはそういった多くの観点から言って、まさに最高のレベルでした。受講生は九州で演奏・教授活動をしているトップクラスの人達、あるいはコンクール優勝者たちで、まさに「マスタークラス」と呼ぶに相応しいレベルでした。したがって、David のレッスンは非常に要点が絞られていて、音楽の話しにしろ、またテクニックの話にしろ、極めて明快な内容で、レベルが高いけれども、そのことがどんなに重要であるかということも、またそれがいかにして習得されうるのかも、聴講していたあらゆるレベルの人に理解できたのではないかと、確信しています。
 私が直接彼にプライベートレッスンを受けた経験や、また講習会の聴講生として聞いているときには、あまり気付かなかったことなのですが、「通訳」としてステージに座って、受講生の隣で演奏を聴いていると、「もしも僕だったら、どういうアドバイスをするだろうか?」と、ついつい考えてしまいます。そして私の興味は、受講生の演奏が終ったとき、果たしてデイビッドはどんな話しから切り出すのだろうか、そしてどれだけのことを教えるのだろうか、という一点に集中します。そしてわかったことは、かれが殆ど例外なく、その限られた時間内で指摘し、アドバイスを与え、教えてあげることは、受講生の持っている「最大の欠点」を直させることではなく、受講生が「見落としている最も基本的なこと」である、ということです。人間というものは、自分の欠点を自覚している人もいれば、気付いていない人もいるわけですが、どちらの場合も面と向かって「あなたの欠点はこれです!」と言われたら、あまりいい気分のするものではありません。それだけで、もうレッスンが悪い雰囲気になって、学ぶということが出来なくなってしまう場合もあるでしょう。デイビッドのアドバイスは「・・・これは基本的なことなんですよ、だからとても重要なことなんですよ、わかりますか?でもあなたは今それを上手く出来ていなかったのですが、それは何故でしょうか?」と作業を進めていきます。「見落としている基本的なことがある」というのは言い換えれば、その人の「欠点」なわけですが、彼はすぐに「解決の方法」を提示することと「それが解決されることによって、どんなに演奏が変わるのか」と言うことを即座に、そして実際にしめし、更にはその方法さえも分かりやすく教えて、受講生に勇気を与えてしまうのです。
  このプロセスは聴講生、すなわち観衆にとってはある種の「格闘技」の観戦にも例えることが出来、やがてそれが単なる例えではなく、デイビッドにとってもそして受講生にとっても、まさに「真剣勝負」であるという緊張感が、観衆をして最良の聴講生たらしめるのです。彼が何故これほどまでに真剣であり、誠実であるか、そして何故これまでに「教える」と言うことに情熱を持ち、またそのことへの伎倆を高めてきたか、その答えはおそらくひとつで、デイビッド自身がいつも誰よりも上手くギターが弾けるようになりたいと努力してきた、そしてその感動を分かち合いたいという精神にあるのでないかと思います。私にとっては、そのことがまたもうひとつの感動であり、私が彼から学んだもうひとつのことなのです。

 

(2004年10月7日)
つづく

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