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更新:2005年4月7日

曲目について-4

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藤井眞吾 ギターリサイタル〜ギターのための小品集
すべては薄明のなかで [4/14 in BIWAKO & 4/21 in TOKYO]
【曲目について by 藤井眞吾】

4.すべては薄明のなかで(武満徹)

 オリジナルのギター独奏曲としては、「フォリオス Folios(出版/1974)」につぐ第2作目となるこの曲は、作曲者・武満徹氏が「大好きなギタリスト」と公言してはばからなかった、イギリスのギタリスト、ジュリアン・ブリーム氏の委嘱により書き下ろされ、作曲されました。初演は1988年、ニューヨークにて。
 武満氏はおそらく、自身ではギターを弾くことはなかっただろうと推測されますが、誰よりもギターの音を愛し、そしてギターという楽器が何をなしうるか、またその可能性を誰よりも感じ、模索し、われわれに提示し続けてきた人でした。 この作品には希代の音楽家、J.ブリーム氏に寄せる強い思いをかしこに伺い知ることが出来ます。またショット社から出版された楽譜はブリーム氏によって校訂され、綿密な運指が施されることによって、ひとつの「完成されたギター曲」として誕生しました。
 しかし今あらためて検討してみると、このことが・・・、すなわちブリーム氏の校訂によって、あるいはその過程において、私達が通常は知りえることの無い「音の整理」が行なわれたのではないだろうか、と思わずにはいられない、そういう状況を生み出しているのです。つまり、荘村清志氏のために書かれたギター独奏のための処女作にして記念碑的作品「Folios」がそうであるように、あるいは第3作目「EQUINOX」そして、殆ど遺作と言っていい「森のなかで in the Woods」がそうであるように、私達は作曲家・武満徹がギターに、あるいはギター奏者に、何を求め、何を書き残したのかを余すところ無く知ることが出来ます。被献呈者による音の変更は殆どされていないからです。しかし、本作品「すべては薄明のなかで」では、はたして作曲者が本来書いたものが何であったのか、というのはわからない、というのが私の私見です。

 作品は「ギターのための四つの小品」という副題を持ちますが、第1曲から第4曲に至るまで、それぞれの小品は、それが持つ番号(数字)との抜き差しならない関係を感じさせます。すなわち第1曲は「1」という数字と、第2曲は「2」という数字と、第3曲は「3」という数字と、そして第4曲は「4」という数字との深い関連を示しています。また曲全体は執拗に「五拍子(5/16、5/8)」あるいは「五つの音」が曲を支配しています。
 第1曲では「ミ」のハーモニックス音から始まり、次の瞬間にはその同度(1度)とその「1オクターブ(8度)」の重音が重なります。つぎの小節では「ド」の音を中心に「(短)2度高い」「(長)3度低い」音へと展開し、さらにその音から「完全4度高い」音へ、「完全5度高い」音へ、「6度高い」音へ、 と音程の隔たりを広げていきます。物語の始まりは「1度」だったことを記憶して下さい。

 第2曲 Dark では「ソとラ」「レとミb」といったような「2度(あるいは7度)」関係の音によって和音が構成されています。16分音符の旋律的動きはかならずもうひとつの声部でその動きが模倣され、二つの声部がこだまの様に聞かれます。全体を支配する「五拍子」は殆どの場合「2+3」あるいは「3+2」という複合拍子であることが感じられます。
 第3曲は「シb」と「ソ」という「(短)3度」の音程関係をもった重音から音楽が始まります。二つの声部は一歩ずつ歩みを進めることによって、その音程関係を広げてゆきますが、行き着くところは「三度」を積み重ねた和音です。ここでの「五拍子」は第2曲の場合と違って、五つの拍が一体となっていることが多く感じられます。
 第4曲は「ミb」から「ラb」へ、そして「シb」へと動きますが最初の二つの音は「完全五度」での音程を持っていますが、これは「完全四度」の転回であることは言うまでもありません。「ミb」と「シb」 は 「完全四度」であり、次に聞かれる「ソb」と「レb」も勿論「完全四度」です。ここでは「四度」の音程が重要となり、この音程はギターの開放弦の音程であることを私達は思いだすことが出来ます。いわゆる「アルペジオ」の音形はこの曲を特徴づけていますが、一際ロマンティックな雰囲気はこの終曲が、平穏や幸福に満ちあふれていることを感じさせます。最後の2小節で聞かれる五つの音は相互に四度の転回、あるいは減四度、増四度の関係にあります。

 この曲に隠された「数字」との関連をお話しましたが、果たしてこれが作曲者自身が強く意図したものであるかどうかはわかりません。このことに作者が言い及んだという記述も目にしたことはありません。全くの偶然であるかもしれませんが、ここで述べたことが、某かの形で作曲のモチーフとなっているだろうと私は考えています。

 そしてもうひとつ、この曲が J.Bream 氏の為に書かれ、そして校訂されているということを最初にお話ししました。そのことによって、この曲が世界的にギターのスタンダード・レパートリーとなりつつあることは皆さんも良くご存知のことと思います。なぜなら施された運指は完璧であり、演奏可能な現代曲として広く受け入れられているからです。しかし「Folios」や「森のなかで」が「すべては薄明のなかで」よりも演奏が困難であるかというと決してそうではありません。「森のなかで」は作曲者が書き残したそのままの状態で、いかなるギタリストの手も加えられていませんが、私には完璧なギター曲であると思えるのです。もっと踏み込んで言うなら、作曲者の作り上げた音楽は、むしろ「Folios」や「森のなかで」のほうが十全な形で伝わってくる、というのが私見です。Bream氏の校訂作業において、私はきっと何らかの変更作業が加えられただろうと思わずにはいられませんし、そのことは、この曲を弾いてみるととても強く感じられるのです。
  あくまでも憶測の域を出ませんが、最終曲はもしかしたら、武満氏は「半音高く」書いたのではないだろうか、と思うのです。ギターという楽器を熟知していた作者に、この「調(音域)」を選ばせた理由は一体何なのでしょうか? 開放的になりすぎない、柔らかい響を求めたのでしょうか? 二度現れる複雑な動き(18小節〜21小節)は本当に武満氏の書いた音なのでしょうか? 34小節から36小節までの3小節間では、本当は低音が1オクターブ低いのではないでしょうか? だとすれば曲全体が「半音高く」書かれている必要が、(ギターの音域から言って)あります。
 ブリーム氏は何ヶ所かが演奏効果を上げるために半音低いという変更を選んだのではないでしょうか?  曲の最後の和音は半音高くなることによって、再び第1曲へ向かう感じを持つのですが・・・。今はあくまでも推測で申し上げることしか出来ません。

 

 


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