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ギターを始める

4-高校から大学にかけて

 高校に入ると一年生の時の副担任の先生が大畑先生という音楽の先生で、母校(函館ラ・サール高校)は当時グリークラブ(男声合唱)は盛んでしたから、先生はかなり熱心に私たちの音楽指導をしてくれていたのだと思います。「高体連」と言うのがありますが、同じようなもので「高文連」という、高校生が集まって楽器を演奏したり、歌ったりするという、ちょっと大掛かりな「発表会」の様なものが函館で毎年ありました。先生が、私がギターを弾けるというので、代表として弾くように言われました。発表の前に先生に何回か聞いてもらいました。バッハのチェロ組曲6番のガボットとソルの「グランソロ」を弾きました。バッハの曲はそのちょっと前に、セゴビアがアメリカのテレビ局の番組で弾いたのを聞いて、好きになり、やっていました。「グランソロ」は当時の私にはものすごく「かっこいい曲」で、必死になって練習した曲です。矢張り学校にギターをもって行って、放課後先生に聞いてもらったのです。このとき大畑先生が「ソナタ形式」と言うものを教えて下さいました。

 今から思うと、中学生の時も高校生の時もこうして音楽の先生にギターを聴いていただけたのは、とても幸運だったのではないかと思います。私には大きな影響があったと思います。

 私は京都大学の農学部と言うところで木材の加工機械の騒音について勉強しましたが、実はこれはギターの音響を研究するための基礎勉強というつもりで、選んだ道でした。ただし、京都大学に進学する前年には東北大学理学部の受験に失敗して、仙台で一年間浪人生活をしています。予備校の寮に入っていましたから、勿論ギターは弾けません。寮では禁止だったのです。仙台市内に「YAMAHA」と「KAWAI楽器」の店があり、予備校の授業が終わると毎日のように、このいずれかの楽器屋に行って、一階の安いギターを並べたところで「試奏」するようなふりをしてギターを練習しました。また楽譜売り場で楽譜を立ち読みして、毎日1ページくらいずつ覚えていくと、何日か通うと曲が覚えられるようになるということを知りました。このことは貧乏な大学生時代にもとても役立ちました。また北海道の実家から楽譜を送ってもらって、ひたすら楽譜を読んでいると、夏休みに家に帰ったときにその曲が殆ど弾けるようになっているということも、大きな発見でした。この時はタンスマンの「カヴァティーナ組曲」を予備校の寮の一室で、こっそりと勉強しました。でもA.ジョリベの「二つの練習曲」は楽譜を読んでもさっぱり音が浮かんでこなくて覚えられませんでした。懐かしい時代です。仙台での「浪人生活」は私の人生の中で、特別な想い出が沢山あります。また機会がありましたらお話したいと思います。