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《はみ出し者の運命》
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はみ出し者の運命
4.私は何になりたい?(Op.26)
 
更新/2010年10月20日
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4.私は何になりたい?(Op.26)

 「”私は羊歯になりたい”による変奏曲 作品26」という大変美しい曲が、ソルの作品にあります。古いフランスの民謡で恋人の眠る部屋の窓づたいに、羊歯(しだ)になってでも会いに行きたい、というような恋心を歌ったものだそうです。

Sor

 主題はいかにも「切なく」、恋する余りに、愛する余りに、胸引き裂かれる、・・・と言った感じの旋律(イ短調)です。アウフタクトではじまり、付点のついたリズムは支えを失った心が失意のそこへ下降するかのようです(A)。後半では一転して明るい気分となり(平行調のハ長調)旋律は上向し、気分は「高揚」します(B)が、すぐにまたイ短調へと回帰します。ここでは「切ない気持ち=イ短調」「明るい気分=ハ長調」という調的な対比だけでなく「落胆=付点を伴った下降」「希望=滑らかな上昇」という対比が重要です。勿論それは演奏者にとって大事なことです。
 しかしこの曲の序奏(Introduction) はいささか変わっています。殆どのソルの作品では序奏部は次ぎにやって来る主題に対して「属和音による半終止」で、期待を高めますが、この曲では完全終止をします。それはあたかもこの序奏部がまるで「完結した音楽」っだり、それは「主題」の様に聞こえてしまう危険があるのです。しかし、あくまでも序奏は「恋という病」に陥った若者が登場するための場面設定をしているに過ぎません。そのことはこの序奏部の主題に対するテンポの見つけ方、そしてこの部分の「雰囲気」をどのように表現するかということに大きく関わってきます。
 もうひとつ大事なことは、序奏部も主題と同様にアウフタクトではじまりますが、その不完全小節からの和音進行は「序奏/主和音→属和音」であるのに対し「主題/属和音→主和音」であると言うことです。それはその部分の決定的な表情の違いとして理解することができます。別な言い方をすれば、序奏では最初の旋律が「暗く沈んだイ短調の主和音で開始されながら、その向かうところは属和音の不安定で、切ない気分をいっそう駆り立てる流れである」ということ、そして主題では「属和音上に旋律が開始され、その向かうところは暗く沈んだイ短調の主和音である」と言うことなのです。この対比はリズムの面でも見ることができ、序奏は二つの八分音符でなだらかに開始されるのに対し、主題は付点を伴った劇的な始まり方をしているわけです。この対比があってこそ、独特な序奏から主題の導入が可能となり、まさにそれは作曲者、フェルナン・ドソルが明確に企図したものであると私は思うのです。序奏ではそれに続く部分ではアウフタクトに相当する動きは次の小説の第1拍に対して「ドミナント→トニック」という関係を持ち、これはまさに主題部の始まりと一致するわけです。

 さて、ここまで「はみ出し者の運命」についてお話をしてきましたが、この曲の始まりを(序奏の始まり)をわざわざ、主題と同じ付点のリズムに書き換えた版を最近目にします。根拠はなんなのでしょうか? 「プリントミス」と思うのでしょうか? 私には惣は思えません。前述のように作曲者は明快な意図をもってここのリズムをかき分けていると思うのですが、いかがでしょうか? それとも、同じような動機は皆同じリズムでなければにけない、などという理由でもあるのでしょうか? だとすれば、ソルはなぜ次に来る第1変奏をこのように(C)に始めているのでしょうか? ここはプリントミスではないのでしょうか? その答えは「2.こめられた意味(Op.44-7)」で既に述べたような音程と動機の関係のように、ここでは和音と動機が密接に関係している、と考えるのがもっとも整合性があると私は思うのです。私はソルは本当に偉大な作曲家だと思います。そして緻密な作曲家だと思います。このように表面的な事をプリントミスだとは、私にはどうしても思うことができないのです。もしもこれを付点のリズムで弾き始めてしまったら、一体「私は何になりたい?」と歌いださなければいけない、そんな気さえするのです。

 



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