Diary
2005
12

 

●ギターの音色
2005年12月30日(金)
「ギターの音」と言うことを考えることがある。よく「楽器奏者は、その楽器から固有の《よい音》を出すことが出来なければいけない」と言う。僕もそう思うし、他人にもそう言う。また演奏会に行ったとき、「ピアノの良い音を聞きたい」とか「フルートの良い音を久し振りに聞いた」なんて、そんな表現をしばしば使っている。
じゃあ・・・、「ギターの良い音、って何だろう」と思う時がある。それは「ピアノの良い音」と言った場合より、僕には曖昧で答えようが難しい質問となるようだ。何故だろう。だけれど「よい音」とか「綺麗な音」というのは、それに比べてハッキリと答えることができる。
例えば「セゴビアの音」というのがある。同様に「イエペスの音」もあったし、「ブリームの音」もあった。「ジョンの音」も(それらよりは個性は強くないが)ある。「ホセルイスの音」も確かだ。では「バルエコの音」はどうだろう・・・。「デイビッドの音」はかつての巨匠達に比べても負けず劣らず確固たる個性を持っている。だけれども彼らの音が、本当に「ギターの美しい音だ」と限定できるのだろうか? いや、ギターの綺麗な音はもっと存在していると思う。僕達が「セゴビアの音」とか「イエペスの音」などと思いだす音は個々の音というよりは、その奏者の「音楽」とか、その演奏法や表現の仕方などから、他からは聞きえなかった独特の「プロセス」を集約して「音」と感じているように思う。結局「音」というのは「音色(ねいろ)」のことよりも「語り口」なのかもしれない。
●Fanaライブ2005
2005年12月20日(火)
寒波の影響は想像以上に酷いよう。先日のコンサート&公開レッスンでは九州からの参加者ヘのフライトの影響もなく、無事終了。小さな会場での演奏は相変わらず難しいけれど、聴衆の一人一人の表情がとても明るく、生き生きとしていたので、嬉しかった。公開レッスンも参加者全員がとても真剣で、反応もよく、楽しかった。若い人達の演奏が僕を勇気づけてくれるのは何故だろう? ・・・と、思う。技術の破綻も、音楽的な間違いもある。だけれども演奏を聞いていると、何か明るく、わくわくするような未来が感じられる。その未来に僕の助言や、もしかしたら少しばかりの「考え」も反映されるかもしれない、と考えると、胸が踊る。音楽は楽しい!
●寒波襲来
2005年12月17日(土)
寒い!明日は大寒波襲来でもっと寒くなる、雪も降るかもしれないそうな・・・。先日チャペルでの演奏は・・・、寒かった。弾くほどに寒くなる、何て初めてだった。明日は遠方から来る受講生もいるから交通機関が心配。
●高本一郎さん
2005年12月2日(金)
 一昨日の夜、僕の枕元にいた猫がうろうろ歩き回り、押し入れにジャンプしたり、耳元で「ニャ〜」と生臭い息を吹きかけたり、トイレに行って帰ってきたと思ったら、今度はウン○クサイ肛門を僕の鼻先に向けて寝るし・・・、さっぱり眠れなかった。眠れないなら起きてしまえ・・・! と早起きをしたら、その日は一日ぐったり。
 11月の最後の日、大阪のイシハラホールでリュート奏者の高本一郎さんのリサイタルを聞く。と言っても先日のつのださん同様、今回はギター属ばかり。ビウエラ、ルネサンス・ギター、バロックギター、そして19世紀ギターと盛り沢山。19世紀ギターはパノルモのオリジナルとラコート工房で製作されたオリジナル。前半でのルネサンス、バロック作品では特にG.サンスが絶品。この味わいはこの楽器しか持っていない・・・、魔力。カンパネラの恍惚とラスゲアードの喧騒が聞く者をして、別の世界に誘い込む。 19世紀ギターは大きな期待をもって聞いた。作品はF.カルリのモーツァルトによるアリア、そしてジュリアーニ&モシェレスによる共作にして大作、協奏的第二重奏曲。いずれも共演はフォルテピアノの小林道夫氏。23年前、イギリスはヨークの講習会でJ.リンドベルイ(Jacob Lindberg)のレッスンを受けたとき、夜のコンサートで矢張り彼が19世紀ギターでソルとジュリアーニを見事に聞かせてくれたことがあった。近年、ギタリストが19世紀ギターに強い関心を示しているけれども(・・・勿論、僕も例外ではない)、楽器だけを単に持ち替えて、原大の奏法で弾いたのでは意味がないと思っている。その楽器に相応しいテクニックというのがあるはずで、それは音楽の表現とも切り離せない。現代のギター奏法で19世紀ギターをひいた時、楽器本来が持つ繊細さの多くを失うと同様に、リュート奏者が全くのリュートの奏法でアプローチしても落とし穴があるように思う。リュートだって、ダウランドだって16世紀のヨーロッパの奏者達に比べるとはるかに先進的なテクニックを使っていたと考えられるし、少なくともイタリアの初期バロックでは、爪の使用さえ決して否定的ではなかったはずだから、何種類もの楽器という事自体、もはや余りにも大きなリスクを持っていると思う。
 昨日は地元の大ホールでアイスランドの音楽家とダンサー達による素晴らしい音楽会を堪能した。中世から現代に至るまでの音楽を見事なセンスで聞かせてくれた。演奏とそしてステージ全体の洗練された味わいは、もっと多くの音楽愛好家達の手に届くような企画であって欲しいと願ったのは、出演者のうちの何人かが僕の友人だから、そう思うのではない。
●森のなかで
2005年11月1日(火)
 いくら練習しても上手く弾けない曲というのがある。 小品であれ、またそれ程難しくないはずの曲であれ・・・。そしてこんな時「どうして僕はこの曲を弾こうとするんだろう?」と思ってしまう。だけどその答えはその曲を弾けるようになったときにしか見つけることが出来ない。弾ける曲は一杯あるんだから、わざわざこの曲を弾かなくても良いんじゃないか、と思っていたことが、そもそも間違いであったことにも気付く。弾けるようになったとき「ああ、これだ、これだ」と懐かしい想い出に行き当たったような感慨にふける。それは初めに、「この曲を弾きたい!」と感じたときの胸の中に沸いた感情そのものなのだろう。今度弾く武満徹編曲の「12の歌」のいくつかは、僕にとって、長い間そう言う存在だった。目の前にありながら、なかなか手が届かなかった。
 武満氏が最期に残したギター曲は「森のなかで In The Woods」という三つの小品だ。それぞれが、J.Williams、荘村清志、J.Bream、という三人のギタリストに捧げられている。もっともよく整理され整然としているのは第1曲、すなわちJ.Williamsに捧げた「Wainscot Pond」だ。第2曲、すなわち莊村さんに捧げられた「Rosedale」はこの組曲の中でもっとも難解で、ある意味、武満徹らしい音楽の味わいをかもし出している。第3曲、J.Breamに捧げたという「Muir Woods」は想像しえなかったほど、ロマンチックで官能的だ。これら三曲がほとんど遺作と言っていい時期に書かれ、そして幸か不幸か、まったくギタリストの校訂を経ることなく出版された譜面には作者からの底知れないメッセージがあるように思えてならない。いよいよ明後日、僕は京都で「武満徹とギターの音楽」という演奏会を迎えるけれども、この音楽会が僕にとって長い間待ち焦がれたものであるような気がする。ただ、それは終着点ではなく、むしろやっとスタートラインに立ったようなものであると、今は強く感じている。

from Nov. 19th 2002
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