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Rhapsody Japan
by Shingo Fujii
sankaku
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Rhapsody Japan

Rhapsody Japan
~2.文部省唱歌の残したもの

 1867年に大政の奉還、1869年には東京遷都が行われ日本は近代国家に向けて激烈な歴史をスタートさせます。1871年には文部省が設置され、10年後の1881年には「小学唱歌集」が編纂発行されます。治世の根本の大改革と同時に経済の構造、教育の仕組みと内容に至までの改革は、欧米の列強を手本として行われましたが、音楽教育の実際に関しては「小学唱歌集」が作られる前年にアメリカ合衆国から宣教師メイソンが招かれ、合唱・歌唱の指導にあたります。メイソンは当時の「賛美歌集」のなかから、日本人にも歌いやすそうな曲、それはおそらく純正の西欧音楽よりはヨーロッパの中にあってもやや民謡調の物が、ペンタとニックに近いことから、スコットランドやアイルランドの民謡を選出、そして日本語の歌詞が創作され「小学唱歌集」の中にそれらは組み込まれました。「螢の光り」がそれです。その後も文部省による「謹製音楽集」は改定を重ね、私達日本人は国語や算数、社会や理科の「学習」と同じ価値として音楽を「学び」、歌って来ました。特に1910年の「尋常小学読本唱歌」からは作者が全て日本人となりますが、しかしそれは文部省という国家機関が「製造」した音楽、具体的には個人の作曲家が作ったものではなく、担当した音楽家が合議によって作ったものとして、長い間その作曲者名すらわからなかった、そんな音楽を歌ってきたのでした。これらの多くは今でも作曲者を合理的に特定することが出来ない、と言われていますが、そのことだけを考えてみても私達日本における音楽環境は極めて特殊であったと思うのです。
Bill 私はだからと言って「文部省唱歌」という音楽作品の存在に対して、否定的な考えを持っているわけではなく、むしろこれらの作品が背負っている政治的/歴史的なものを全て取り払い、単純に音楽作品として見つめ直したい、それは何故なら私を含めて多くの日本人が「永く」「親しく」付き合ってきた音楽だから、という理由に他なりません。だからこそ、これらの音楽のより客観的な事実をもっとよく知りたいとも思うのです。

 


 
 
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