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Rhapsody Japan
by Shingo Fujii
sankaku
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Rhapsody Japan

Rhapsody Japan
〜1.日本の音楽

rhapsody これまでに「日本の音楽」と言うことを考えること、考えさせられることが何度かありました。おそらく「考えさせられること」のほうが多かったと言ったほうが良いかもしれません。私はギタリストですから、当然一般的な意味での「日本の音楽」と言うことだけでなく、いつも「日本のギター音楽」ということも同時に考えていました。そのことを考えるときいつも忘れられない体験がいくつかありますので、それを先にお話ししましょう。
 スペインでギターの勉強をしていたときに、ある日本人ギタリストが「こうして海外にいると、日本の音楽を弾いてくれって言われる。コンクールでも日本の曲を弾けと言われる。だけど彼らが期待している日本の音楽というのは、武満徹じゃないんだよね・・・」と言う。じゃあ何かというと、さくらさくら、とか津軽じょんがら節とか、そういうものだという。こういう視点に、私はひどく落胆し、例えようのない失望感を感じました。
 あるとき私と同年代のドイツのギタリストが「日本の音楽は素晴らしい!」という。「ほう君は日本の音楽を知っているのかい?」といささか不躾に逆に質問すると、「ああ、ドイツで聞いた。雅楽というやつをね。素晴らしい音楽だ。」という。本当にドイツで、正真正銘の雅楽を聴くことが出来たのかどうかは定かではないが、「私は雅楽を聴いたことがない」というと「君は日本人なのに雅楽を聴いたことがない、なんて情けないやつだ」という。たしかに情けないかもしれない、日本人なのに。だけど雅楽というものは本来庶民のための音楽ではないし、皇室の行事と結びついて発展したこれらの音楽は、私が天皇の就任式に臨席したことがないのと殆ど同じ理由で、この音楽は聴いたこともないし、これからも聞くことはないだろう。そういう意味では雅楽は「僕の日本の音楽」ではない。ドイツで演奏された雅楽を聴いて、日本の音楽の全てを知ったかのように思っているあのドイツ人は可哀想なやつだと思った。
 最近、私の友人が「唱歌などの音楽は西洋人から見れば、日本の歌曲ではなく、西洋音楽なのだ」と言うようなことを言われたと、かなり落胆した様子だったのですが、そういう事を言うのはおそらく、さきの日本の音楽は武満徹とかじゃなくて、津軽じょんがら節なんだというのと、同じく無教養で、また野蛮な意見だろうと思うのです。 「日本の音楽」という定義をすること自体がかなり難しいと思うのですが、それは「フshanghaiランスの音楽」とか「ドイツの音楽」「イタリアの音楽」という定義よりも少し難しい要素を含んでいるのも事実です。また音楽というものが、個人個人との極めて私的な世界も持ちうるものでる事から、このことを考えていかなければなりません。そう考えたとき、私にとって「唱歌」、いわゆる「文部省唱歌」の持つ意味はとても大きいのです。

 


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