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ESSAY

藤井眞吾のエッセイ《りんごのおと》

ESSAY
りんごのおと

 
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21.地下鉄の音楽

 地下鉄が開通したときに、当時京都市芸術大学の教授であった作曲家・廣瀬量平氏から「どうして地下構内にBGMを流すのですか? 無粋なことです」といったようなことを言われ、すぐにそれを止めたとの話を、然る方から伺ったことがあります。音楽の、そして音の名匠ならではの名言、そしてそれに即応した京都市の英断、間違いありません。BGM(バック・グラウンド・ミュージック)等ということがまことしやかに言われますが、今の日本は何処へ行っても、あちこちで無神経な音楽の洪水に身を委ねければならず、私にとっては拷問にも近いものがあります。
 音楽を聴きに、しかも好きな音楽を聞きに、好きな演奏家の演奏会へ、私達は出かけます。小さくアットホームな会場では演奏者自身が解説を交えたり、時には洒脱なコメントを付け加えたりして聴衆の緊張や、会場の雰囲気を、解き放し、和ませてくれることがあります。・・・が、しかし本当にそうでしょうか? 実は私はあまりその様に感じたことはないのです。最大の理由は、どんなに私が興味深い演奏家であれ、私はその人のお喋りを演奏会場で聞きたいと思ったことは一度もありませんし、ましてやお笑い芸人さながらに絶妙な「トーク」なるものを披露された日には、音楽への感興もすっかり醒めてしまうからです。小さな会場で見ず知らずの人間同士が言葉も交わさずに、一方的に演奏するなんて異様なことだ、と曰(のたま)う方もいらっしゃいますが、それも私はそう思いません。
 私がギタリストとして出演するときにも、しばしば主催者から「何か喋っていただけますか」と懇願されることがあります。その時には「はいはい、勿論いいですよ」と二つ返事で引き受けます。でもだからと言って、特別なことを喋る気は毛頭ありません。会の雰囲気が緊張して、和やかなものにならないのは演奏そのもの、音楽のせいなのですから。そして何よりも演奏家が気を付けなければならないのは、「演奏会」というひとつの時間芸術は彼自身が発する「声色(こわいろ)」「話の内容」そして「演奏」と全てがひとつとなって「音楽となる」という事実の重さです。軽々には思うなかれ。かつて、イギリスの巨匠J.ブリームが演奏会が始まろうとしているとき、遅れてやって来たお客さんに「ここに席がひとつ空いてるよ」とステージから話かけたら、すっかり会場は和んだ雰囲気になったことがあります。しかし彼は必要と思ったからそう言っただけのことであって、彼の音楽会が素晴らしいものであったことは、その事とは何の関係もないのです。
 京都で演奏会を聞いた帰り、地下鉄の静かなホームに立つと、またそこにひとつの素晴らしい音楽が存在していることに、いつも私は大きな感動と満足を覚えるのです。

藤井眞吾

「りんごのおと No.21」2004年7月1日発行