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ESSAY

藤井眞吾のエッセイ《りんごのおと》

ESSAY
りんごのおと

 
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13.通(つう)

 

 「通(つう)」を気取る人は意外に多い。学生時代には「無粋な奴」と思われた御仁が二十数年経ってみると、衣食の彼れ此れに立派な能書きを垂れるようになっていたりする。私は「蕎麦」は大好きだが「蕎麦通」は大嫌いだ。先だって然る蕎麦好きを自称する方と「、なんて言っても、蕎麦通ほど鼻持ちならない輩は無いですね」と意気投合したのも束の間、「山葵は蕎麦に乗せて喰へ、などとぬかす」と悪態をつくと「まさか藤井さんは山葵を蕎麦汁に入れてるんじゃあ無いでしょうね?」と引き下がられてしまった。まあ、世の中こんなものかと諦めても、その場の白々しい空気は杯を重ねるしか収めようが無い。
 「饂飩(うどん)」にも通は居る。特に讃岐の通はうるさい。讃岐に有らずんば饂飩に有らず、と言わんばかりに、うるさい。大阪の通もうるさい。しかもここの通は「お揚げさん」にもうるさい。何と、京都にもうどんの通は居られて、これも密かにうるさい。京都のうどんには「品」というものがあるのだそうだ。とにかくうるさい。勿論、東京も負けてはいない。
 私はかつて、蕎麦ほどには饂飩に興味はなかった。いや、可也どうでも良かった。何故なら、蕎麦は面の打ち方、茹で方、汁の甘辛、出しの濃い薄い、薬味の選択から刻み加減に至るまで嗜好がはっきりしていたけれど、うどんを喰うと言っても、所詮は小麦粉いい加減に捏ねて、何かの残り汁でもぶっ掛けりゃそれで十分と思っていたからだ。
 ところがある日事態は一変した。何かの残り汁をぶっ掛けたら美味かったからだ。そして、ただの生醤油をぶっ掛けても美味かったのだ。うどん粉の捏ね加減も様々に宜しく、熱くも、温かくも、また冷やしても美味い、と気づいたのだ。しかも和風のみにあらず、釜揚げをイタリア式にトマトベースの残りソースをからめても、きゅっと氷で冷やしたうどんにニンニクと胡椒を効かしたドレッシングをたっぷり掛けても、美味い。ちょっと濃い味の冷麺スープもなかなか合う。うどん、なんと「度量」の大きい御方か!
 もひとつ、「通」の方々も性格が違う。蕎麦通は何処か悲愴で、気が短そう、要するに度量が狭い。うどん通は蕎麦通に負けず劣らず頑固でナルシストだけれど、第三者的に観ていると、何故か愛すべき方々に思えてきて、仲間に入れて欲しくなる、懐の深さがある。少しばかり「うどん派」を持ち上げすぎたかもしれない。それも善し、餅をあげて「ちからうどん」。こんな駄洒落は山葵を麺に擦りつける方にはお分かりにならないだろうね。どうやら私は「つう」にはなれそうもない。私は「ふつう」が良い。

藤井眞吾

「りんごのおと No.13」2003年6月21日発行