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ESSAY

藤井眞吾のエッセイ《りんごのおと》

ESSAY
りんごのおと

 
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12.会 話

 歳をとると愚痴が多くなるとは巷でよく言われることながら「俺はまだそんな歳じゃない!」と思いつつ、はたと気がつくとやたらと文句の増えてきた自分に気が付く。「今時の若いものは・・・」と言い出したら老人の域だとも先人が曰っているが、だとすれば悲しいかな私は立派な老人かもしれない。
 時代が変わったのか、我が国の諸々の文化や国民意識が変わったのか、東京オリンピックの頃とは比べものにならないほど、海外での若者の活躍が目を引く。それはそれで嬉しいけれど、一躍ヒーローに躍り出た若者がカメラの前で突きつけられたマイクに、無愛想極まりなく憮然と語る姿は見る者をして 「お前は何様か!」とぶちぎれる寸前にしてくれる。インタビューとは質問があり、それに応えるから成立するのであり、また視聴者はそのやり取りから言外の情報を得るはずで、あのふてぶてしさと不躾な態度は最早「やりとり」などと言えるものではない。
 「ディベイト」とかいう耳慣れない言葉がTVから聞こえてきたら、猫も杓子もやれディベイトだ、討論だと相手構わず罵声を浴びせ、口角泡を飛ばして持論を捲し立てるが、はたしてあれは何の御呪いかと疑いたくなる。あんなもので難題の解決が導き出せるのなら、人間には知識も、理性も、見識もそして哲学も不要だろう。
 今も昔も、自分勝手に、自分の話ばかりをしたがる人というのはいるもののようだ。・・・ということは昔から知っていたから、何人かの人間と同席して会話を進めているとき、そのような御仁に遭遇するという不運に見舞われても、さほど悲観はしないようにに自分を訓練したつもりが、最近になって、世の中にはそのように暴走する人、一方的に会話を奪い取り自己陶酔に浸る人間を、いとも簡単に受け入れ、揚げ句の果てには一同和して彼をヒーローと祭り上げるという人々が驚くほど大勢いるのだと知って、死にたくなるほど世の中に失望いたしました。私達には「だまらっしゃい!」と一喝する勇気も必要でしょうし、不遜な若者を我慢強く導く忍耐も必要でしょう。
 そんな中にあって最近、絶妙の会話を楽しませて下さる方々とお会いしたことは最高の喜びでした。独りはギタリストで、私が若いころから既に人気絶大であられたS氏。初めて対面するファンの方々とも見事に意見を交換され、どんな方の珍説音楽論もいやな顔一つせず丁寧に耳を傾けられ、それでいてご自分の意見はずばりと申される、氏の爽快であった演奏と同様に会話の妙技も見事と言うほかありませんでした。そしてもう一人は私の高校の大先輩であり、京都市の重職を歴任されてきたS氏。いかなる分野の話題にも並々ならぬ好奇心を示し、ご自身の持つ博い見識の柔らかな語り口と、相手に語らせる見事な聞き上手・語らせ上手は、座を立ったときに思わず爽やかで充実した気分に浸らせて下さいます。
 会話というのは他者から己の不見識を御教えいただく場であると同時に、語らいの中から互いの新たな発見を模索する場ではなかろうかと私は思うのです。これは少なくとも我々人間に与えられた特異な文化であり、技であり、我々が共有する知識や芸術の大半が、こういった過程から産出されていると、私は思うのです。私の愚痴は日増しに増えそうですし、そこから考えるなら私は日々老人の領域に突き進んでいるようです。それは若者の所為ばかりではなく、世界中の動きが私をそうさせているのかもしれません。

藤井眞吾

「りんごのおと No.12」2003年4月10日発行