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ESSAY

藤井眞吾のエッセイ《りんごのおと》

ESSAY
りんごのおと

 
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9.老眼

 

 二、三年前から新聞が読みづらくなった。新幹線の中で単行本が読みにくく、爪を切るときには、眼鏡をはずさなければならない。一番困るのは、演奏会で楽譜を見ながらの演奏。仕方なく、楽譜を一回り大きくコピーしてしのいでいたけれど、最近はそのサイズがあまりに大きくなってきて、不細工なので、なるべく楽譜を必要としないように務めている。
 中学生の時から近眼で、背の高いこととこの視力は疑う余地もなく父親譲り。ところが最近の悩みは万人共通の「老眼」という、面白くも何ともない肉体の老化。見えないからといって眼鏡を額の上にズリ上げ、覗き込むように活字を読んでいる「親爺」達の姿を、かつては「格好わるい!」などと言っていたのに、今は自分がそんな姿を晒しているかと思うと全く情けない限り。新聞が読めないなら読まなければいい、本が読めなければ本など買うな、なんて思っていたけれど、どうも最近はそれは大きな間違いであったような気がしている。
 間違っていたというのは本を読まなかったり、新聞を読まなかったことではない。眼鏡を外して手の平を眼前に翳し、15糎程に近づけると、己の掌に刻まれた皺が良く見える。そして肌の色つやだとか、立体感が新鮮に見えてくる。「おやおや、オレの手はこんな塩梅かい?」と感動すら覚える。三十数年に渡って二つの凹レンズ越しに眺めて来た風景とは何だかとっても違う。本を開いて読んでみると、一頁全体は見えないし、十数個の活字しか読めないけれど、顔を近づけているから本の紙の香りが仄かに漂ってくる。そしてひとつひとつの文字が生々しく私に訴えかけているような気がする。新しい世界が見えてきたような気もする。う~ん、これも悪くないな、と今は思っている。「遠くを見るのは心眼と言うやつか」と悟ったような気分にもなっている。

 

藤井眞吾

「りんごのおと No.9」2002年9月30日発行