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ESSAY

藤井眞吾のエッセイ《りんごのおと》

ESSAY
りんごのおと

 
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4.切れてしまいました

 

 テレビの番組を楽しむにはいったんビデオに撮ってから後でゆっくりと見る、と言う人は私だけではない。私は「UFO」や「謎の巨大生物」、そして「心霊現象」に「超常現象」と言った類いの怪しい話をネタにした番組が大好きで、わざわざ旅先から家内や娘に電話で頼んでまでビデオに入れてもらって見ている。ただし、そういう話を信じているから見るのではない。その昔、お祭りの見せ物で「大イタチ」を見せるというから、高い木戸銭を払って薄暗い小屋に入ってみると、立て掛けた大きな板きれにサンマの血か何かを塗りたくって、それで「大・板・血」、という様なくだらない洒落(落ち)を期待して見るのだけれども、どうも番組製作者にそういう洒落が無い。いや、居るなら居るでいいんだ、存在するなら存在するでいいんだ、チャンと真面目に番組作ってくれよ、と言いたい。
 もっと酷いのは、「我々は現地に調査に行った」に始まって、二重三重に期待を盛り上げ、「さあ、どうなんだ?」というところで、必ずコマーシャルに入る。番組を盛り上げるのに10段階のステップを踏んでいるとすると、「8」か「9」のところで緊張の糸を切られてしまう。こういうのが視聴者を惹きつける「手法」なのだろうか。少なくとも私はこのせいで、いつも醒めてしまう。もしも演奏会で、前半の最後の曲、さあ終わりのメロディーというところで「10分間の休憩」に入ったらお客さんはどう思うだろう。音楽にはきちんと「流れ」と言うものがあり、「オチ」だけが単独では存在しえないように、テレビ番組にもそういう「流れ」は有るはずじゃないのだろうか? こういう分断されたストーリーが日常茶飯事たれ流されるから、それに慣れてしまった今の若者は、簡単に「切れてしまう」のだろうか? ・・・まさか。

 

藤井眞吾

「りんごのおと No.4」2002年1月31日発行