「さくら」あるいは「さくらさくら」と呼ばれるこの曲は一般には「日本古謡」とされますが、実際には幕末の頃にお箏の手ほどき曲として作られた物であり、明治以降それに歌詞があてられたとする説は、私には極めて納得のいく話であります。お琴の、ギターで言うところの「開放弦」を駆使した旋律、そして整然とした楽曲のバランスは、いかにも近代的であり、またその歌詞が明治以降と言うことを考えれば、西欧ではすでにブラームスやドビュッシーが活躍していた頃ですから、「古謡」という呼び方自体が間違いに属すると考えるべきかもしれません。
今年も各地で桜の花が人々の目を楽しませています。丁度三月の末は仕事で一週間東京に滞在していましたが、ホテルに上る坂道には街路に桜の木々が並び、到着の頃には蕾だったのに、みるみる膨らみ、満開となる様は鮮烈な体験でした。ホテルには沢山の外国人宿泊者がいて、「日本で花見をしよう!」というツアーで来ているのだと言う事にも驚きました。
「さくら」の旋律を使ってギターソロ曲を書こうと少し前に決心してみたもの、やはりこの旋律はヨーロッパの調性や、機能的な和声は、私にはどこか居心地の悪さを感じさせ、それらを用いない方法で楽曲としてみました。なぜ、そういった西欧的なやり方がこの旋律に相応しくないのかと考えた時、調性の確立や方向性を持った和音の進行は、時間の流れを規定し、楽曲の立体的な形を明確にする働きを持つのであり、そのことがこの旋律を聴いた時に私達日本人が限りなく想起するイメージを、反って限定的にしてしまうのではないかと思ったのでした。
春の訪れとともに、あたかも迸る血しぶきの勢いのように、花開き、やがて間もなく辺り一面を花びらで覆い尽くす「桜の生命」は、日本人の想いの中に、長い間、極めて象徴的に存在しています。しかしそれは決して一律ではなく、重なりあう花びらのように、語り尽くせない思いを載せているのだとも思えるのです。
藤井眞吾(2014/4/19)
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