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ESSAY

藤井眞吾のエッセイ《12のエッセイ》

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12のエッセイ

 
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12のエッセイ ・・・
《 教えるものとして感じること


 私は演奏活動を始めてからしばらくの間、レッスンがとても嫌で仕方がありませんでした。教える事が嫌いだったわけではなく、人に教えている時間も実は自分の練習のために使いたい、と強く思っていた事や、正直に云うと30歳代の頃は他人に確信を持って教えるという事ができないと感じていたからです。今は57歳、ずいぶん時間が経ちました。この間に実際には沢山の人を教えてきましたし、自宅でレッスンをする以外にも、色々なところでマスタークラスをしたり、音楽学校で教えたりもしてきましたから「レッスンが嫌だ」なんて言えるわけはないのですが、もしかしたら感じている事は30年前とあまり変わらないのかもしれないと時々に思います。
 私は35歳くらいの時から何年間か毎日「練習日記」をつけてみたことがあります。それは自分の練習内容を客観的に反省したり、明日からの練習計画を合理的にしたいと思ったからです。それを初めて最初に解った事は、練習の内容が甚だしく偏る傾向にあったという事です。大きく分けると「技術の練習」と「レパートリーの練習」、そして「新しい作品を勉強する」と三つの練習が必要なのですが、これらを毎日の限られた時間の中で計画的にする事は今でも非常に難しいです。
 「技術の練習」は「右手」「左手」「左右の同機(同期)」と三つに分けて練習しますが、それが出来るようになるまでには身体の使い方や、身体と技術の関係を理解しなければなりませんでした。またそのための練習内容も、色々な先生のアドバイスや教本等から沢山学びましたし、それ以上に重要だったのは練習課題を自分自身で作り出すという事でした。レッスンではこういう基本的な事を時間をかけて一人一人に教えていきますが、結局は練習の課題は人によって要求されるものが違うので、生徒ごとに新しい課題を考えなければならないと言いうことがしばしばあります。誰にでも共通する極めて基礎的な事が実は一番大事なのですが、それを理解し実践出来る生徒はごく希です。
 「レパートリの練習」は止めどなく時間のかかる作業ですが、これはさしあたりの演奏会の曲目を温習(おさらい)するとか、目標が具体的なので比較的計画的に行えますし、すでにレパートリーである曲をもう一度勉強するという時間は大好きなので、上手に出来るようになって来たと思います。  「新しい作品を勉強する」ための時間と言うのは、それこそ計り知れないもので、これはこれまでも膨大な時間をかけてやって来た事ですし、おそらく死ぬまで延々とやっていきたい事と思っています。だから一日の練習計画の中でこれに一体どれくらいの時間がかけられるかというのは、なかなか言い難い事でもあります。
lesson 私は「教える事」が嫌いなわけではありません。むしろ大好きかもしれません。しかし必ずレッスンや教えるという作業は限られた時間でしか行うことが出来ず、ひとつの言葉やアドバイスが、どれだけの意味を持っているのか、そういう理由からそのように行っているのかを伝えるのは、非常に難しいことだと今でも思っています。生徒が成長していくためには、音楽的能力や努力をする能力の他に、学習能力や理解力、そしてそれらを統合する能力が求められています。同時に「教えるもの」として、いつもそれを的確に与えると言う責任ある作業を全うする能力が求められているのだと、機会あるごとに強く感じています。ギターを続ける限り、そのことからは避けられないと57歳になって解るようになりました。
 12回に渡り、ご愛読ありがとうございました。

(藤井眞吾 記/2012.4.14)