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ESSAY

藤井眞吾のエッセイ《12のエッセイ》

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12のエッセイ

 
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12のエッセイ ・・・
《 運指の事 》


  今は楽譜を書くのにもコンピュータで、いわゆる浄書ソフトというものを使って楽譜をかなり奇麗に書く事ができます。「かなり」といいましたのは、いくらソフトが上等でも、やはり機能的で解り易い楽譜というのは、昔からちゃんとしたルールがあって、音符だけ入力してもその他の情報をそのルールに則って書いてやらなければ、やはり見やすい楽譜にはならないからです。
 ギターの楽譜には「運指(Fingering)」というのがあって、、特に管楽器等の楽譜に比べて大変ごちゃごちゃとした印象を与え易い、そして煩雑な楽譜になり易いですから、出版社はきっとそういう事にも気をつけているのだろうと思います。ところが最近は、私が作曲した場合には私の入力したデータをそのまま出版社に廻すという事が増えて来て、ですから私もそれなりに「見やすい楽譜」を作るように気をつけなければなりません。
 大きな編成のものでは、スコア(総譜)と、パート譜を作らなければなりません。曲を作る時にはまあ大抵の場合は、スコアを先ず書いていくわけです。スコアが出来上がれば「曲が出来上がった」わけで、あとはパート譜を出力し、見やすいようにレイアウトを調整します。ところが、一般的にはスコアには「運指」を書き込まず、パート譜にのみ書き込みます。スコアに細々した運指があると見にくいということと、運指は奏者のための情報であって、指揮者には必要ない、という考えがあるのかも知れません。
 ところが私の場合、曲を書いている時に「ここはハイポジションの音が欲しい」とか、メロディーのパートとの音量バランスを考えて、自然ハーモニックスではなく、人工的ハーもニックスにしよう、とか色々考えてついつい運指を書き込んでしまいます。これは音楽的理由からなのですが、パート譜を出力してしまったら、勿論最後の仕上げではスコアからわざわざこれらの書き込みを消さなければなりません。これが結構めんどうな作業なのです。
fingering 運指を取り払った楽譜は何だかのっぺらぼうの坊主のように見えて、作曲者にはそこから音楽的情報が消え去った悲しみしか与えてくれません。以前になんどか、全く運指を書き込まずに曲を作り、パート譜を出力してから個々に運指を書き込もうとしましたが「・・・もうそんな事は演奏者に任せたらいいや!」という気持ちになって、さっぱり作業が進みませんでしたし、曲を書いているときのような「上質なアイデア」は二度と浮かんできませんでした。通り一遍の運指はない方がましです。
 アマチュアの音楽家達には、特にギターの場合は運指が書かれていないと演奏が出来ないという人がよくいます。それは音楽の読み方、楽譜の読み方が足りないから、そういう能力がいつまでも身に付かないのでしょう。そういう人に限って、楽譜の中にある「音楽の深さ」を読んでいないものです。

藤井眞吾(2012年1月17日)