gfd
               

ESSAY

藤井眞吾のエッセイ《12のエッセイ》

- ESSAY -
12のエッセイ

 
Loading

12のエッセイ ・・・
《 格言・故事》


  知識とか教養が人間にとって重要な物である事は解っているけど、それが度を超したり、それで身を飾り立てているのはどうも好きになれません。日本だけではなく、英語圏等ではすぐにシェイクスピアの一節を引用したりするのも同様なのだろうと思います。全く「ブルータスお前もか」と言いたくなります。
 いにしえの日本人は漢文を読む事、中国の文化に精通している事が知識人の条件であったようですから、そこに由来する格言や故事を言葉の端々に挟む事が「わたし、知識人です」という信号になるらしいのです。「・・・四面楚歌の状況にありながらも、今日彼があるのも、決して漁父の利を得ようなどという考えは持たず、まさに臥薪嘗胆。人生これ塞翁が馬ということです。」なんて言われても「なんだかな〜」としか思えません。
usagi また格言や故事には、私には「なるほど」とうなずけるものもあれば、「そうかな」と腑に落ちないものも沢山あります。子供の時に、祖父にも学校の先生にも、奇しくも同じ格言を賜ったことがあり、それは強烈な記憶として今でも残っています。小学生の時に一体何がきっかけだったのか覚えていませんが、祖父が私に「二兎を追う者一兎をも得ず」と説き聞かせたことがあり、また中学を卒業する時には尊敬していた国語の先生からも、卒業の花向けの言葉として同じことを言われ、ひどく落胆しました。「二兎を追うもの一兎をも得ず」というのは「欲張るな」「ひとつ事に集中しろ」という戒めで、生来の性格で、あれもやり、これもやり、していた私を諭すために語ってくれた愛情に溢れた教えであったのだろうとは思うのです。
 あれから四十年以上が経ち、恩師の言葉も祖父の言葉も私には一向に生かされていません。それどころか現在の私は「二兎を追えぬもの一兎をも得ず」とさえ思っています。これは「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という意味で言っているのではなく、「一兎を追って一兎を得る」のはきっと名人のなせる技であって、やはり私のような凡夫は「一兎を得るには二兎も三兎も追う」というのが正直なところです。
 そもそも、私は「一兎だけをを得る」なんて思った事がなくて、いつも「十兎も二十兎も得たい」と思っています。十代の若者が「二兎を追う者一兎をも得ず」なんて思っているんだったら、なんだか「寂しいな」「つまらないな」と思います。きっとこの格言の言わんとするところは「一兎を得るには二兎を追う程の努力をしなさい」という事なのだろうと思うけれども、そんな悟りの境地にはまだまだ至りたいと思いません。
 若者達よ「追え、追え、ウサギちゃんを!」。  ・・・そうだ、こう言った人もいる、我が故郷を開拓した一人、クラーク博士の言葉「Boys, be under shirt!(少年よ下着になれ!)」、・・・あれ?

藤井眞吾(2011年9月13日)