gfd
               

ESSAY

藤井眞吾のエッセイ《FORESTHILL NEWS》

- ESSAY -
FORESTHILL NEWS

Loading

藤井眞吾 エッセイ vol.10
うそ

 二~三年前の事だと思うのですが、年末か正月の特番だったと思うのです。深夜に寝床に入って、TVのスイッチを付けると薄暗い部屋がぼんやりと明るくなり、なんだか面妖な番組がブラウン管に映しだされます。20人くらいの若い女性が色とりどり衣装を身に着け、一人の司会者を中心に他愛もない暴露話をやっています。どこかで見たな・・・、たしか司会は明石家さんまのはずだけど・・・、まあいいや、としばらく眺めていましたが、なんだか空気が「変」。喋っている女性達は、どれも水商売風で決して上品とは言えないけれど、なかには結構可愛い娘もいるわけです。それなりに私の「タイプ」もいるわけです。中にはお世辞にも美しいとは言えない人もいるのですが、まあ芸能人か、こういう番組にでるんだから、その道の人だろうと思って、さらに見続けます・・・。可愛い娘もいるんです、バラエティー番組なんですから・・・。
 子供の頃、NHK教育テレビの番組で、水彩画の「市民講座」みたいなのがあって、何と言う先生だったか忘れたけれども、「《秋の枯れ木立》を描くときには、葉っぱを枝から少し《離して》描きなさい」と教えているのを聞いて、背筋が寒くなったことがあります。それは何故かというと、《冬を迎え生命を失わんとしている木の葉は、枝と微かに離れるという非現実的な描写によって、生命の終焉、すなわち厳しい寒さの冬を迎えることを暗示するからです》とおっしゃるわけです。秋であろうが、夏であろうが、春であろうが、葉っぱは枝に付いています! 付いていないものは「枯葉」というのです! それは言わばひとつの《象徴主義》であって、そういう約束事を写実の世界に遠慮もなく持ち込んでいることだと、子供ながらに思い、ひどく腹立たしく思ったことがあります。「勝手な《約束事》じゃあないか!」と。
 音楽において、長和音は明るい響きで、短和音は暗い響き、同様に長調は明るい世界で、短調は暗い世界だ、と教えます。減七の和音は極めて不安な感じがすると教えます。でも、それで本当に良いんだろうかと今も思うのです。「ハ長調」において「主和音(ド・ミ・ソ)」の次に来る「二度(レ・ファ・ラ)」も「三度(ミ・ソ・シ)」も短和音なのです。「長調の明るさは、その中の短和音によって認識できる」のではないか?
 絵の先生がおっしゃることは「最大公約数」として、そして「テクニック」として正しいかもしれないけれど、「枝から離れた葉っぱ」はあり得ないし、それを誰もが「秋の枯葉」と感じるということは無い、と僕は思う。春先の初々しい葉っぱと、初夏のしっとりとした葉っぱと、晩秋の淋しげな葉っぱは、そんなことでは表現し尽くされない!
 だけど、僕は騙されていた! 番組にでていた「女」達は、皆男だった。ただ単に女装をしたお笑い芸人達だった。醜悪な女も、眉目秀麗な女も、僕が「タイプ」だと思っていた女も、皆男のお笑い芸人達だった。そのことに気付くのに十数分かかったと言う事実に、また愕然とした。「嘘だ!」心の中でそう叫んだ。何度も叫んだが、・・・虚しい。さっきまで「あ、この娘、可愛いな」と思っていたんだから。オレが馬鹿なんです。
 お化粧をして、髪を長くして、スカートを身にまとうと、男でも女に見えるのかな・・・。情けない。「タイプ」だなんて思ったなんて、なんて情けない。でも十数分間、僕は間違いなく「可愛いな~」とかなりいい感じで見ていたじゃあないか・・・。悲しいな~、情けないな~。
 時々、音楽というものもこれに近く「罪深い」ものであると悩んでしまうときがあります。でもそれが「男であるか女である」という問題ではなくて、受け手が何を感じたかということが肝心なのです。はい、私は確かに「タイプだな」と思いました、でも許して下さい。

 

FORESTHILL NEWS
no.67 (2007.02.10)