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ESSAY

藤井眞吾のエッセイ《FORESTHILL NEWS》

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FORESTHILL NEWS

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藤井眞吾 エッセイ vol.5
ジョーク

 《「隣りの家に垣根が出来たんだってさァ」「へえ」》・・・これは古典的日本の小噺(こばなし)。《「このはしをわたるべからず」と立て札を見て一休さんは橋の真ん中を歩いた》というのも有名なお話し。駄洒落、言葉遊び、直線的、平面的な物語の構造が目立ちます。
 一方、ヨーロッパやアメリカとなると小噺は無尽蔵に、しかもはるかに面白い。例えば《天国の門番をしていたマタイに老人曰く「息子に会いに来ました。息子は両手両足に「穴」が開いています。」と。「おおそれは十字架に磔となった我が救世主イエス・キリスト。」とばかりに天上国よりキリストを呼び寄せる。すると老人は「おお我息子、ピノキオ!」とばかりに抱きつく》。もうひとつ、米・ソ冷戦時代のジョークを。《ある男がホワイト・ハウスの前で「大統領のばか野郎! おたんこなす!」と絶叫するとすぐに警察がやって来て「侮辱罪」で逮捕されたという。同じころモスクワでは「ロシアの首相は大馬鹿野郎で、ドケチで、おおボラ吹きだ!」と叫ぶとKGBがやって来て即刻逮捕。罪状は「国家機密漏洩罪」とか・・・》  政治批判、体制批判、人種差別、などなど軽く笑えるものから、冷や汗もののなかなか笑えない際物まで星の数ほどある。艶譚、色話、エロ話の類はその数百倍ある。国を問わず。
 先ほどの「ピノキオ!」は何故面白いか・・・。先ず「天国の入り口」というオープニング、これが良い(・・・1)。万人想像をかき立てられる。老人がやってきて「息子に会いたい」という、「おお、人情ばなしか」と思いきや「両手両足に穴」とくれば、神聖なるカトリック国では言わずとしれた、ゴルゴダの丘で磔となったイエス・キリストを連想(・・・2)。さすればこの老人、キリストの父、ヨセフか、いやいや聖なる父「神」の御姿か、となる(・・・3)。門番氏キリストを呼ぶ。ここで聞き手は勝手に最大のクライマックスを期待する。救世主キリストとその父の対面、バックではアランフェスの第2楽章ギターソロのカデンツァがけたたましく聞こえてくる(・・・4a)。そしてキリスト登場、世紀の対面と思ったら、「ピノキオ!」この一言で、落胆と、笑いが、神聖な宗教譚から童話の世界へ地滑りを起こす(・・・4b)。実は身近な小噺の中にも周到な準備と仕掛けがなされている。特に「・・・4a」と「・・・4b」の甚だしい落差が笑いのエネルギーとなる。そのエネルギーを生み出すべく、前段「1~3」で仕掛けが施されている。
 先日博多でM.ジュリアーニのソナタをレッスンしていて、ヨーロッパ300年の音楽史の中で燦然と輝く「ソナタ形式」はこうしたジョークのセンスと切り離せないところから生まれているのではないかと感じる。いや、はるか以前からそれは感じていた。「第1主題の提示(1)」「第2主題の提示(2)」、そして展開(3)、再現(4)という論法は寸分違わない。イタリア人、M.ジュリアーニと言う人はともすれば気侭奔放な側面ばかりが強調されるが、この作品15のソナタでは驚くほどの論理性と、クールなユーモアを感じさせる傑作に仕上がっている。フォレストヒルミュージックアカデミーでは春からの新設コースに「ソルフェージュ」と並んで「ジョーク」を必須科目とするそうだ。

 

FORESTHILL NEWS
no.60 (2006.4.20)