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ESSAY

藤井眞吾のエッセイ《FORESTHILL NEWS》

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FORESTHILL NEWS

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藤井眞吾 エッセイ vol.2
個性

unkei 「こんな夢を見た。」という書き出しで、夏目漱石の「夢十夜」は始まる、と思っていたが、それは中の四編だけで、私の大好きな「第六夜」はこう始まっていた。 「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。」 そもそも鎌倉時代の仏師を明治の文士が見に行くというのが変なのであって、これは夢かとわかる。
 一番好きなのはこのくだり・・・、「よくああ無造作(むぞうさ)に鑿を使って、思うような眉(まみえ)や鼻ができるものだな」と独り言つと「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿(のみ)と槌(つち)の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と見物の男が物知り顔に答える。そして明治の木には仁王はうまっていない、だから運慶が今日まで生きているのだと合点して短い話は終る。
 さて、ギターの表面板と言う平らな板をご存知でしょう。この裏側には「力木(ちからぎ)」という木が張られていて、主にボディーの強度を支えているが、さらに団扇の骨のように貼られた「ファン・ブレイシング」はギターの音色に決定的な影響を及ぼしている。これらのパーツは大きなものではないが、部材からどのように切り出されるのか、ご存知だろうか? 鋸(のこぎり)? いえいえ、なんと「斧(おの)」で、えい!・・・とばかりに割って、真っ直ぐ、平らに形成しているもののみを使うのだそうです。言わば木の中に「力木」になるべき「魂」が埋め込まれている部分のみを使うということなのだそうです。勿論科学的に説明すれば、内部応力がどうのこうのと小生意気な事を言うのでしょうが・・・。
 木というのは生き物ですから、木材の一本一本が、それこそ違った個性を持っているのだそうです。飛鳥や天平、奈良、鎌倉等の時代の大工さんは、まずこの「木」の個性を見抜く名人でなければいけなかったのです。  音楽というのは、特に演奏するということは、演奏する自分という個性と、作品(あるいは作曲家)という個性の巡り合いにこそ面白みがあると思うのです。運慶が掘り出した仁王像は、もしも快慶が掘り出したなら、違ったものかもしれないと私は思うのです。卓越した伎倆と洗練された感性があってこそ、木の中に埋め込まれた仏様の形がつかめてくるのでしょう。私達演奏家を仏師にたとえるなら、演奏の技術や音楽の感性も、作品の持つ個性的な世界を見抜く力に他ならないと思うのです。木材の個性を見誤るなら、法隆寺も五重の塔も建つことはなかったのですし、様々なギターの名器も生まれなかったのです。
 若者たちの学ぶ方向のひとつに「個性」と言う言葉が、いつか、かならず見えてくることでしょう。この言葉を誤ることなく知り、自らに戒めることを、私は漱石から学んだような気がします。

 

FORESTHILL NEWS
no.55 (2005.12.11)